2003年8月1日
大阪労災病院で右精巣腫瘍の高位精巣摘除術という手術を受けました。あれから10年です。罹患した当初は再発して死ぬんじゃないかとか本気で思ってましたが、10年も経ってしまうとほとんど気にならなくなりました。
今まで何度かまとめたことがあったのですが、あまりにも中途半端で細部に触れたくない自分がいたので完全にまとめたことはありません。いい機会なので振り返ってみようと思います。長くなると思うので2回くらいに纏めて。なお、入院中は全くと言っていいほど記録を取ってません。意外にチキンです(-_-;)
精巣腫瘍については、国立がん研究センターのHPに情報がでてます。少しでも気になることがあれば、受診をお勧めします。そうやって手遅れにならずに生きている私がいい証拠だと思います。手も付けられないくらいに我慢してお亡くなりになった方も知ってます。
告知
この年の5月にちょっと事情がありまして、転職したのですが7月中旬にその会社の全社員が集まる研修というのが北海道でありまして、その準備を大阪の自宅でしてました。(当時は堺市の新金岡というところに住んでました)一人暮らしではなく、奥さんと8ヶ月になる娘もいました。
まあ、部位が部位だけに細かい話はしませんが、お風呂に入って体を洗っている時に何か違和感があったのです。しこりのようなものですかね。小豆大の大きさだったと思います。余談ですが、人によっては腫瘍がソフトボールくらいに大きくなる人もいるようです。
その時は、まあいいかと思いつつ、翌日札幌に向かうこととなります。ちょうど、札幌駅がリニューアルしてすぐぐらいですかね。ちょっと他の人より早めに札幌入りして街ぶらしてから行こうとしていたのです。札幌駅の改札でたところで医療モールがオープンしたという看板を目にしました。札幌駅のステラプレイス(駅ビル)に医療モールができたんですね。その時ふと昨日のことが気になって病院に行ってみようと思ったのです。
CTなんてあるわけでもなく(今は医療モールが大きくなってその場でCTも撮影できるようです)、腫瘍マーカーの数値も取れるわけではなかったのですが、カラードップラーエコーというもので検査されました。で、腫瘍マーカーの確定診ではなかったのですが、ここで告知を受けることになるわけです。
「悪い出来物ができますねえ」 決して医者からはがんとは言いません。こちらから「がんですか?」と聞くと、「えええ、そうです。」というような感じのやり取りでした。
医者になぜ今札幌にいるかなどを話、精神的にしんどいだろうし早めに腫瘍マーカーの検査とCTを大阪の病院でしたほうがいいと言われたので会社に事情を話しそのまま大阪に帰ることにしました。北海道に上陸して、札幌駅から一歩も外に出ずに帰ったわけです。
その場で、父と母にも連絡したのですが、中でも父親が電話口で「若いお前じゃなくてできれば代わりになってやりたいのに」という言葉が一番辛かった。
奥さんにも連絡したら、同じ年の奥さんはもう長くないとか当時思ったたらしい…
子供も小さかったので将来を心配してたのでしょう。結果、抗がん剤中に現実を受け入れられず実家に帰っちゃうわけですが….
引っ越してそんなに間がない堺の家の近所に大阪労災病院がありました。そこに札幌の病院の紹介状を持参の上受診することになりました。腫瘍マーカーの数値など詳細なデータは覚えてないのですが、CTと腫瘍マーカー数値で精巣腫瘍と確定しました。
セカンドオピニオン
他の医者の意見を聞くために他の病院にも行きました。ここで重大なミスをしたのです。阪大病院に行ったのですが、大阪労災病院ってここの系列病院なんですね。なので、「U先生なら間違いない診断だから元の病院で手術を早急に受けてください」と、2時間待って、2分で終わりました。ここで観念して入院することにしました。
大阪労災病院では2003年7月30日入院し、8月1日に手術で確定したのです。入院するときはがんを取ったらすぐ退院できるのかとも思ってました。本にもそう書いてましたし、これが甘かった。
入院した日に手術の事前説明があったのですが、以前撮影したCTの件で詳細な説明がありリンパ節に転移していることがわかったのです。病気の進行具合の分類としてはステージⅡAですね。摘出したがんを調べた上でその抗がん剤を使うか決めましょうということに….
家族と上司以外に言ってなかったのですが、前職の同僚や仲良かった人には前日に明日手術しますってメールしました。このことが当日意外なことになるとは….
みんなから返信をもらったメールはまだ持ってます。
そういえば、某携帯電話会社の某女史は、私の手術の日に復職したそうですよ。Yさんが当時のメールに書いてました。ということは、今日で勤続10年ですね。おめでとうございます。
前日夜から食事も取れなくなり、ああ、ビール飲みたいなあと思ってましたね。確か…
この時の手術の所要時間は約1時間半 当時のメールを見ると。2003年8月1日16時から行われたようです。 全身麻酔でしたので、朝まで起き上がることもできません。今まで入院したこともなく、メスもいれたこともなかったので不思議な経験でした。
手術の細かい内容はちょっとグロいのでやめときますが、麻酔から冷めた時には手術室を出たところの回復室にいました。で、そのまま病室に戻ったのです。病室に戻ると、あれ??どこかで見た家族でない人がいるような….まだ、麻酔から本当は覚めてないのかな??とか思いつつ。本当でした。東京から前の会社の先輩が来てました。ま、手術の場所が場所だけにそういう人はいないかなと思ったのですが、手術後笑って話せたのも結果としてよかったかもしれません。
面会時間が終わり、暗くなったあとに、爆弾のような音と光が….
起き上がれないので見れません。これが10年前のPL花火大会だったのです。来年は見れるのかなとかしょーもないことを思いつつじっとしてました。
次の日から普通に歩いてました。あまり病人ぽい格好もやだなと思ったので、短パンとTシャツで病院内をウロウロしてましたね。テレビ見ながらずっと本読んでましたし、まあ、生きてたら大学院でも行こうかな思ったのもこの入院生活のなかからです。
細胞診の結果は、非セミノーマの奇形腫 BEP(ブレオマイシン、エトポシド、プラチナ製剤(シスプラチン)の頭文字を取ってます)を3クールし、非活性になった時点で、リンパ節の転移巣も取ることになりました。(後腹膜リンパ節郭清) ということで、入院が4ヶ月程度続くこととなりました。
長いので、次回に続く